他人事ではなく『自分ごと』で考える

他人の困難や社会問題について、これまでどこか他人事ひとごとだったかもしれない。

今は『自分ごととして考えているつもり』ではある。『以前よりも考えようと努めている』でもいい。弱気だけど。

それでも自分以外の人の困難や悩み、社会問題について『考えなければいけない』とは思うようになった。

そんなふうに考えるきっかけとなったのは……なんだっけ?

日本は経済もITも衰退しているな~とか

政治も行政も良くならないな~とか

働き方改革と言いながら労働環境は改善しないな~とか

個人の価値観や多様性を認め合うと言いながら、息の詰まるような社会が続いているな~とか

世界的な自然災害やウイルスの脅威に晒され続けているのに、人類は戦争をやめないな~とか

……そんな漠然とした問題意識だったと思う。

ふと考えたのは

『自分以外の問題は、全て他人が(社会が)解決してくれると思っていないか?』

『他人事として無関心だった問題が、ある日、自分に起きたらどうする?』

『それが自分では解決できない問題だったら?』

『でも、自分がそうであったように、その問題について他人が(社会が)無関心だったら?』

『解決できないまま、悩み苦しむ日々が続くのでは?』

『社会にはそんな人達が想像以上に大勢いるのでは?』

『社会問題とは他人事と無関心が根源なのでは?』

『他人事と無関心が社会問題の解決をはばむのでは?』

逆に考えると

『社会問題を自分ごととして考えるだけでも、解決へ向けた第一歩となるのでは?』

まぁ実際にはそんな単純で簡単な話ではないだろうけど、少なくとも自分ごととして考えなければ、その社会問題は他人事のままということだ。『そのうち誰かが解決してくれるだろう』と捨て置かれたまま、その社会問題が解決する日は来ない。

だから、世の中の他人事だと思っていることを、まずは自分ごととして考えようと思った。

日本は経済が回復せず、世界で唯一のデフレ経済国家として30年以上も失われてしまった。経済をコントロールすべき政府がデフレ政策を続けてきたからに他ならないが、日本国民はどこか他人事のように考えていなかっただろうか? 国(政府)がどうにかしてくれるとか、自然に好景気へと戻るだろうとか、そんなふうに無関心で、いつかどこかの誰かが解決してくれるものだと勝手に信じてこなかっただろうか?

少子化問題も、医療福祉も、教育も、税金も、ITも、災害対策も、食糧自給率問題も、エネルギー問題も、国防も、拉致問題も、あの問題も、この問題も、どこか他人事ではなかっただろうか?

自分ごととして考えていれば、それら全てに自分なりの考え、意見、提案があるはずだ。無ければ、他人事で無関心だったということになる。

労働問題も同じ。正社員にとって非正規雇用は他人事ではなかったか? 不祥事で経営が傾いたり、企業が失われたりすれば、職を失うかもしれない。再就職がままならず、非正規雇用で日銭を稼ぐことになるかもしれない。同じように非正規雇用にとって正社員の苦労は他人事ではなかったか? そして正社員も非正規雇用も、雇用の交渉や労働争議をせずに、政府から企業へ賃金アップを命じるような期待をしていないか?

国政選挙も地方議会選挙も、この国は選挙の投票率が著しく低い。政治に直接関与できるのは立候補か投票ぐらいだが、香港や台湾が血を流してでも死守したい選挙や民主主義を、日本人の有権者の半分近くが無投票で放棄する。政治にコミットするという責任を負わずに、政治や社会に不満を述べてはいないか? いつか誰かがどうにかしてくれるだろうと他人事でいないか?

人種差別、民族弾圧、性差別、表現規制、飢餓、疫病、etc

どれも自分ごととして考えたこともないまま、他人事のように無関心でいなかっただろうか?

社会問題を個人の力ひとつで解決できるなんて、そんなおこがましいことは毛ほども思わないが、目の前に入ってきたならば、

『この問題が自分に起こったらどうする?』

『今もどこかの誰かが困っている問題だ』

『この問題を阻止解決するにはどうする?』

『今この瞬間、その問題で困っている人を目の前にしたら、自分はどう行動すべきだろうか?』

せめてそのぐらいの考えを巡らせ、誰かの悩みや社会問題について、他人事ではなく自分ごととして考えようと決めた。

たったそれだけのことでも、世の中を少しずつ良くしていけそうな気がするから。

P.S.

SDGsは、そのあたりの問題をまさに『他人事ではなく自分ごと』として考え、問題解決を促す指針ではあるけど……

今の日本のメディアによって流行りモノのように取り沙汰されるSDGsは、あれはあれで諸手を上げて全面的に賛同しづらいものがある。

それはまた別の機会に。

※2021年11月追記

2021年10月31日に行われた衆院選、投票率が55.93%とのことで、いくらコロナ禍とはいえ、半数近い44%が無投票だったことに絶望した。

お上(国家)依存で主体性の無い日本人に民主主義は向いていない。それがよくわかった。これまでは『日本人に民主主義は早すぎた』と唱えてきたが、もはや遅いか早いかではなく、適性そのものが無いのだと感じた。

国家に依存する日本人には、社会主義の管理社会がお似合いかもしれない。個人の尊厳と自由を引き換えに全体主義へと隷属し、管理社会で得られる閉塞的な安寧におもねる。自ら湯に飛び込む茹でガエルのように。牢獄にこもって鎖自慢を始める奴隷のように。

低投票率からわかったのは、日本において他人事かつ無関心の最たるものが政治と選挙ということだった。

衆院選だよ? この国で最も重要な選挙のひとつだよ? その投票率が56%て。国と社会にコミットした有権者が56%しかいない。44%は他人事。そりゃあ政治や行政が、個人の問題を積極的に解決するような国にはならんわな。

もちろん今後も選挙があれば必ず投票に行く。自分ごとだから。

正直、自分は与党も野党もほとんど不支持で、明確な支持政党があるわけではない。しかし、多数決の議会制民主主義において選挙の投票とは、少しでもマシな方を選ぶためにするようなものだ。自分の理想を全て体現する政治家や政党なんてありはしないが、ふさわしくない政治家や政党をそのまま黙って見過ごすわけにもいかないから、そんなふさわしくない政治家や政党を落とすために、よりマシな方に投票する。それが選挙だ。

政治家に文句があるならば、立候補して有権者の支持を得て、政治家になって自ら国を変えろという意見はよく聞く話だ。しかし、主体性がなく依存的で、投票にも行かず、無責任さを棚に上げて文句ばかり言う、そんな今の日本国民の代表なんて御免こうむる。名誉と権力と大金を積まれても断る。自分は別に聖人君子でもなければ人格者でもない。自分の人生を犠牲にしてまで、ワガママな駄々っ子(日本国民)のお母さんになるつもりはない。

その代わりというわけではないが……

日本の根幹を成す、もうひとつの主義である資本主義。自分はこちらに希望を見出す。

とはいえ経済大国だったのも今や昔。ズルズルと衰退国家の道を辿っているが、幸いこの国では経済力さえあれば多くの個人的な問題を解決できる。

だから、自分、家族、友人、仲間といった身近で少数の個人的な繋がりだけでも、せめて経済的に豊かな人生を送れるよう、互いに支え合って生きていきたいと思う。今の日本が、国や行政といった社会システムによって個人を幸せにするのが困難な国家ならば、まずは個人の豊かさを追求する。そんな個人が増えていくことで、結果として社会全体が良くなっていければ、とも思う。

もちろん、自分から遠く思える社会問題も、絶望的な政治も、他人事ではなく自分ごととして考えながら。

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