Twitter が死んだ日

2023年7月1日――Twitterが死んだ。

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ツイート取得上限の制限とTL表示不可騒動

2023年7月1日あたりから、Twitterは唐突なAPI制限をおこなった。ツイート取得上限に達したとやらでTLタイムラインが表示されなくなってしまった。

ここでは騒動の詳細を割愛する。
ググればいくらでも出てくるだろう。

数日で状況は緩和し、TLは復旧したかのように見えた。しかし、ツイート取得(表示)数によっては、いつまた制限を食らうかわからなかった。無闇やたらとツイートを眺めることはできなくなった。

自分のTwitter利用法、昔はフォロー・フォロワー同士の横の交流が多かった。今はニュース・社会情勢・災害情報といった即時性の高い情報収集という側面が強い。取得制限の騒動が始まってからは、いちいち制限を気にかけないとならない状況に、たかだか数日とはいえ強いストレスを感じた。

制限がかかってしまうと、自分で投稿したツイートですら見ることができなくなる。およそ信じがたい状況に、静かな怒りは醒めた呆れへと変貌した。

Twitter との出会いと思い出

自分にとってTwitterは、長らく居心地の良い場所だった。

始めたきっかけを、実はハッキリと覚えていない。Facebook同様、仕事において必要に迫られ、実験的にアカウントを作ったような気がする。ブログ等に設置するSNSボタンの挙動を確認するため……だったような?

時期も、東日本大震災の前か後か、はっきりとは覚えていない。まだ今ほど大企業や自治体といった公的・社会的なアカウントが浸透していない時代だった。物好きが2ちゃんねるからTwitterへと場を移し始めた頃だったような気がする。

自由にフォロー先を決められ、閲覧してもmixiのような足あとが残らない気軽さ。濃い趣味やマニアックな話題を要するアカウントのツイートは、講師の登壇を拝聴するかのような楽しみがあった。

メルマガ感覚で入ってくる情報を楽しみながら、そのくせツイートする側としてはメルマガのような大仰さは必要ない。掲示板よりもオープンで繋がりやすく、内容的にはどうでもいいような、そのときの気分を数文字ツイートするだけでも許される気軽さ。本名登録が必須のFacebookと比べ、見栄を張ったり、しがらみに縛られたりしないユルさがあった。

TwitterはマイクロブログでありSNSではないという論争も今は昔。今のTwitterがSNSの代表格と言っても、噛みつく者はいないだろう。

ソーシャル・ネットワークの名が示すとおり、それまで遠い存在だった芸能人やアーティスト、政治家、専門家といった存在に、国内外を問わず驚くほど簡単にやり取りが可能となった。横の繋がりが次々と発展していく様は、オープンのようでクローズドの空気が支配するFacebookと比べても、本当に驚きを禁じえない画期的なオープン性だった。

個人的には、インターネットが日本で一般に普及するよりも前の時代に、パソコン通信(NIFTY-Serve)で自宅のPCから電話線を介して見知らぬ誰かとテキストでコミュニケーションを取れた感動を、再び思い起こすような驚きに匹敵した。

Twitterで、漫画家ゆうきまさみ氏、小室哲哉氏、アニソンアーティスト栗林みな実氏から直接リプ(返信)をもらった時は、『Twitterすげぇな』と喜びに打ち震えたものだ。

何度かアカウントを作り直したり、過去ログを全消去したり、趣味やジャンルで複数の別アカウントでツイートを分けたりしながら、まぁまぁ廃人に近いレベルで自分の考えや感情を垂れ流してきた。

Twitterは頭の整理も兼ねていた。自分がモヤモヤした感情に囚われているとき、誰に向けるでもなく自分の感情、考え方、価値観などを吐露することで、客観的に自分の状況を分析したり、自分を納得させる段取りに入ったりと、思考実験的な場でもあった。

ブログは、テーマ、タイトル、アイキャッチ画像、最後にまとめる推敲や体裁が必要だが、Twitterは不要。とにかくハードルが低い。その分、ブログのように蓄積されるものもないまま、アウトプットしたものは全てTLに垂れ流されていったわけだが…… ただ、残す価値のあるツイートが果たしてどれだけあったのかと考えると、垂れ流して残らないほうが正解だったような気もしてくるが。

そんなこんなで気付けば公共の情報インフラとも言えるレベルにまで浸透していたTwitter。

それは逆に、半年ROMることもない初心者がドヤドヤと押し入り、自己中心的で勝手なマナーやモラルを押し付け始めたり、バカッターと称される非常識な連中があぶり出されたりする世界とも繋がってしまった。

いつしかTwitterは、リアルと地続きの混沌、息苦しさ、しがらみで膨張した世界へと変貌していた。以前よりも何かいろいろと面倒で、言葉にしづらいストレスを感じ、刺激はあるのにどこか退屈。

Twitterは、一般社会と同質化していた。

イーロン・マスクのTwitter

改悪ラッシュはググればいくらでも出てくるので詳細は割愛する。

まぁイーロン・マスクの買収前――まだTwitter社だった頃――から、改悪ラッシュはいくらでもあったわけだが。

米国Twitter社の開発チームによる機能改悪やデザイン改悪に加えて、Twitterの利用率が世界でも飛び抜けて高い日本でほぼ広告代理店としての役割しか与えられていなかったであろうTwitter Japanですら、偏向的かつ恣意的なツイート操作が発覚した。これまでの日米の機能改悪や余計な実装を細かく列挙していったら、枚挙にいとまがない。

そんな末期のTwitterをイーロン・マスクが買収するという話が浮上。次々と表明された改善アジェンダに、大きな期待が寄せられたのは自然な流れだった。

しかし、イーロン・マスクもまた残念なガッカリ改悪路線だった。

以前のTwitterはマネタイズが下手だったのでテコ入れするのはわかる。しかし有料課金のTwitter Blueはどこかズレた内容だった。サードパーティアプリに解放されていたAPIの唐突な廃止や、今回の一般ユーザーに対するツイート取得制限騒動など、以前のほうがまだマシだったと言えなくもない。

ツイート取得制限騒動に関しては、スクレイピング対策が済むまでの一時的な余波であり、事前告知をすると悪意あるユーザーが『対策の対策』をおこなって回避されてしまうから致し方なかった、というのがイーロン・マスクの言い分だった。理解できないこともないが、結果としては多くのユーザー離れを加速した。ただ、『自分にとっての致命傷』はそこではなかった。

騒動に右往左往する界隈の神経を逆なでするかのように、イーロン・マスクは皮肉ツイートや嫌味ツイートを連投した。彼は以前からシニカルなジョークを好んでツイートする癖があったが、正直なところ面白いと思ったためしがない。

今回もいつものイーロン流のジョークだったのだろう。しかし、それが自分にとっての致命傷となった。あのつまらない皮肉を見た瞬間、自分の中のTwitterは死んだ。

Twitterは、もうイーロン・マスクの私物なのだ。彼自身はCEOから身を引いたものの、息のかかった責任者を後任に据えた。もはやサービスが好転するとは思えないし、どうせまたこれまでのように事前告知のない突発的な何かをやらかし続けるに決まっている。そんな邪推を押し留められないところまで、自分は『イーロン・マスクのTwitter』に愛想が尽きてしまった。

これ以上、ストレスを感じながら利用するのも馬鹿らしいので、これをもってTwitterの個人利用を縮小シュリンクしようと決断した。

……まぁTwitterの依存度が高くなっていたので、これを機会に利用頻度を抑えられたらいいなぁという個人的な依存症対策を、ちょっと大げさに表現しているだけとも言えるが。

なお、イーロン・マスクによる数少ないTwitter改善として、上述のTwitter Japanをほぼ解体して日本のTwitter環境から恣意的な偏向ツイートのピックアップやまとめ記事を排除したことと、ツイートの信憑性や事実性ファクトを追記できるコミュニティノート機能を日本で先行実装したことを挙げておく。この2点は文句なしの改善だった。

今後のTwitterとのお付き合い

ツイート取得制限が大幅に緩和されたのか、もしくはスクレイピング対策が完了して制限自体が解除されたのかわからないが、騒動の数日を過ぎた今は正常にツイートを取得し、TLも以前のように表示されている。

とはいえ、いつまた唐突な制限、機能変更、ストレスとなるデザインの実装といった改悪がおこなわれるかはわからない。その可能性は決して低くないと疑っている。何よりもイーロン・マスクの皮肉の対象からは外れておきたい。

かといって何もかもやめてしまうというのも現実的とは言えない。社会情勢や災害情報といったタイムリーな情報を、一元的かつ瞬時に取得できるSNSとしての利便性は捨てがたい。Twitterだからこそ交流可能な人や組織もある。

なので、これまでのような『オンライン上の自分の居場所』とか『主戦場』といった、心理的に依存めいた個人利用を控える方向性にシフトした。いつTwitterが無くなっても『まぁ仕方ない』と言える程度のお付き合いに留める方向性。今までが入り浸り過ぎだった。結果的には依存からの脱出というきっかけを作ってくれたのだ、と前向きな捉え方をしておく。

情報収集や交流といった役割は、今後もTwitterを利用する。ただし、情報発信の主戦場はブログにシフトするので、ツイートによる投稿頻度は減る。(予定)

Twitterと比べてブログは心理的ハードルは高いめんどうくささはあるものの、自己完結型で他者に振り回されることはない。Twitterはブログ記事更新の告知の場としていければ充分だ。それならば今後またTwitterが二度三度と死んでも、ダメージは『まぁ仕方ない』程度で済む。

なお、Twitterのビジネス活用はまた別の話。利益性や有効性と相談しながら、今後も別アカウントで商用利用そのものは続ける。

個人利用は『好きか嫌いか』や『快か不快か』で決めるタイプだが、ビジネスは『得か損か』『客が居るか居ないか』『客が好むか好まざるか』で決めるべきというのが持論。

だから、当初から嫌っているFacebookも個人利用はやめたものの、ビジネス用途のFacebookページや広告が有効とみなされれば、仕事として淡々と取り組むべきと思っている。自分の場合、個人とビジネスの利用基準は同一ではない。(それが同一と主張する人を否定するものではない。念のため)

Twitterからの移住先として、Threads(スレッズ)が盛り上がっているが、今のところ諸事情により個人利用は考えていない。(そのあたりについては後ほど別記事で投稿する予定)

Twitter, R.I.P.

イーロン・マスクのTwitterは、今後も死ぬことはないのだろう。

でも、自分の中にあったTwitterは死んだ。

いや、とっくに死んでいたのだと思う。自分の中にあった古き良きTwitterは、長らく心肺停止状態だったのだろう。

そして今回の騒動をきっかけに、正式に死亡を確認。そしていつのまにか別人のように振る舞っていた『イーロン・マスクのTwitter』 その生存を確認したということだ。

Twitter on my mind,
Rest In Peace.

※2023年7月24日追記:
Twitterの青い鳥ロゴが、気づいたら味気ない『𝕏』に置き換えられていた。名称も『エックス』。Twitterは名実ともに死んだ。死んでしまった。幸せの青い鳥を殺したイーロン・マスクの『𝕏』には、共感も愛着も感じない。

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